38歳ワーママの私が涙した 「チェリまほ」と「わたナギ」
■しんどい年だった
2020年という年がこんなに予定外だなんて誰が予想しただろうか。コロナ禍が訪れ、オリンピックが延期になって、好きに旅行へ出かけたり、会いたい人に会えなくなったり。とても窮屈な思いをした1年だった。
私は38歳で、夫と2人の子どもがいる。
今は育休中で、そして腐女子です。
子どもができるまでの私は、仕事人間だったと思う。日を跨いで夢中で仕事したこともあるし、出張だって北海道から九州まで駆け回っていた。社内では珍しく二階級特進して、評価もしてもらえた。自慢をしたいわけではなくて、私は仕事するのがとても好き。
でも、子どもができてからは、持てる力を仕事に全振りすることはできなくなった。お迎えの時間には絶対間に合うように帰らないといけない。お粗末でもご飯を準備して、お風呂を沸かして入れて、洗濯機は最低でも1日おきには回して。子どもが風邪を引けば仕事をお休みせざるを得ない。夫が休んでくれることもあるけれど。
家のなかに2人子どもがいると、掃除してもすぐに散らかるし、食べ残しがべとついたりすることなんて当たり前。ママ、ママとひっついて来てくれる息子たちは可愛いし、幸せだ。けど、家事はすすまないし、だっこ要請も多いし正直しんどいこともたくさんある。
なのに、やったことにわざわざありがとう、って言ってもらえることも少ない。当たり前を支える仕事のなんと報われないことか。
「私」の輪郭はどんどん薄くなり、「母親」としての義務と責任がくっきりはっきりして、一体自分はどんな人間だったのか、何が好きだったのかも分からなくなっていく。
シンクに溜まった食器や、ソファに積み重なった洗濯物、出しっぱなしのおもちゃ。
目の前の現実に、苛立ちがつのってしまう。仕事だけして充実していた自分とのギャップにまだ苦しむ。小さな子どもが2人、背負う荷物が重過ぎて、押しつぶされて自分が無くなってしまいそうになるのに、自分をケアすることもままならない。
そんな自分の、この1年に、寄り添い癒やしてくれたのは、2つのドラマだった。
■「わたナギ」と「チェリまほ」
それは『私の家政婦ナギサさん』(以下「わたナギ」)と『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』(以下「チェリまほ」)だ。
もうだいたい知ってる!という人が多そうな気がするので、あらすじを知りたい方はこちらへ。
【木ドラ25】30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい│テレビ東京
正直にいうと、大大大ヒットだったのは「チェリまほ」。なんて凄いものを作ったんですか、テレビ東京様。
丁寧に丁寧に安達と黒沢2人の物語を実写化してくれて、主演の2人がこれでもかと素晴らしい演技で私たちチェリまほ民を殺しに、いや感動の渦に巻き込んでしまった。
私はおおよそ25年来の腐女子だが、今この時に生きていて良かったなと思えるほどに素晴らしいドラマになっていると思う(色々な意見はあれど、だ)。
その「チェリまほ」がクリスマスイブに最終回を迎えた。もちろんわたしはそれを徹夜で見届けて、とても幸せだった。泣いた。スピンオフもすぐチェックした。可愛いの大渋滞。公式が神。
その翌日から、なぜか私の胸はザワザワした。私はこの「チェリまほが好き」という気持ちを、一体どうしたらいいのかわからなくなってしまった。
正確にいえば、「早く忘れなくてはいけない」と思う自分がいた。
朝焼けの空に、昼下がりの暖かさに、深夜の漆黒に、ちょっと思い出しても泣いてしまうほどに、私はチェリまほを愛してしまった。
だけど、心を奪われたまま、チェリまほという魔法がかかったまま、このままで私は大丈夫だろうか。
何故かとても不安になったのだ。
■ナギサさんが一挙放送された
そんな時、ちょうど「私の家政夫ナギサさん」が一挙放送。リアルタイムでも楽しんだのだが、わたしは一挙放送で3話を見て、またしても号泣した。
28歳の主人公相原メイ。仕事に生活を全振りする姿はとても眩しくて、一生懸命で、昔の自分を思い出してしまう。そしてメイにかかった母からの呪い。なんでもできないといけない、やればできる!
呪いに押し潰されそうなメイに「お母さんになりたかった」ナギサさんがかける言葉はとても優しい。本当に、お母さんから言われたい言葉ばかり。癒された。泣けた。
しかし、私は草刈民代演じるメイの母親、美登里にも物凄く感情移入してしまった。
家事が得意でない美登里が「母親らしいことをしてあげられなかった」と後悔し、メイが倒れても何をしてあげたらいいのかわからないととまどう。そして、
「私なんかよりあなた(ナギサさん)を娘は必要としている」
という母、美登里に、ナギサさんはいう。
「お母さんにしかできない仕事というものがあるとおもうんです。ただ、一緒にいてあげるだけでいいんです」
そして美登里は不器用ながらメイにおじやをつくってあげる。
わたしの涙腺はここで決壊した。
そしてわかった。
「チェリまほ」を愛しすぎて怖くなったのは、ただの「役割ぬきの私」がむくむくと大きくなって、母親の役割を投げ出しそうな自分から出たアラートみたいなものだったのかもと。
「母親としての私」を癒やしてくれたのは、ナギサさんの言葉だったのだ。
■黒沢の愛は尊かった
そして、「役割抜きの私」を癒やしてくれたのは黒沢の言葉だった。
話をチェリまほに戻す。
12話で私が一番ぐっときたのは、約束の地、アントンビルの屋上。
魔法がなくなったら黒沢とうまくいかない、自分に自信がもてなくて、魔法に負けてしまった安達。一度は別れを選んだものの、やっぱり黒沢といることを選び直した安達に、黒沢が言うこの言葉だ。
「魔法は関係ない。安達を好きな気持ちに。
ずっと見てきたんだ。
魔法があったって、なくったって、
安達は安達だよ」
ドラマの黒沢は7年の長きにわたって安達に片思いして来た。その黒沢を持ってしてのこのセリフである。嘘偽りのない言葉。
私の心の奥の奥を触られたようで、泣いてしまった。いくら役割を負ったとしても、私は私なのだ、そのままでいいと許されたような気がした。
妻とか、母とか、娘とか、会社員とかそんなのぬきで、ありのままの私でいいと。
BLというファンタジー、装置のよさはここにある、と私は思っている。
■「チェリまほ」はまた新たな希望になる
ドラマチェリまほの凄いところは、安達と黒沢、キャラクターの完成度の高さだと思う。
安達の中に、だれもが自分を見い出しはしないだろうか。
なかなか自分に自信が持てない、自分なんか大したことない。誰かに、何かに一歩踏み出すのには物凄く勇気がいる。自分で自分に期待しないし、なかなかOKなんて出せない。
モサくて、冴えない、安達のルックスだけでなく、ビクビク、オドオドしながらも少しずつ成長する安達に、子犬のような目をした愛らしい赤楚衛ニはぴったりハマっている。
そんな安達に想いを寄せるスーパーエリートイケメン黒沢がしてくれること。心の中で言ってくれ言葉。全てにおいて暖かく、優しい。
安達がくしゃみをすればマフラーを凄く丁寧に巻き、怖い輩から守り、傷の手当てをし、体調がわるいことにすぐに気がつく。倒れそうになればお姫様抱っこだし、一晩中看病して朝にはお粥を作ってくれる。
そして、安達に対して妄想は繰り広げつつも、控えめに、健気に想いをもち続けていく。
黒沢みたいな人はいない、いるわけないと思うのが普通だが、町田啓太はそんな黒沢を見事にリアリティーある人物に仕立て上げている。黒沢の真剣な想いを繊細に上品に嫌味なく、これでもかと安達に差し出してくる。その姿が健気で美しすぎる。
原作の実写化はいつだって難しいし賛否両論ある。だから、原作がBLなら、もっと難しいのは簡単に想像がつく。
そこをこじ開けて実写化するパワー、思いを持った方々がいる、それ自体がありがたい。さらに演者さんがこれでもかとハマっていて、制作の方々がこだわった画面を作ってくださった。それに対して感謝しかない。
BLならもっとここまで!とか、なんでこのシーンが無いのかなとか、もちろん沢山の色々な意見があることを踏まえても、それでも私は「チェリまほ」は私にとっての新たな1つの希望になったといいたい。
BL作品にしかできないこと、与えられない救いみたいなものがあるから。
だから私はこれからも、好きなものは好きでいようと思う。
そしてその私も、母親としてのわたしも、なるべくOKを出せる自分になれるように生きていこうとおもう。なかなか難しいけどね。
年末に癒された私、来年もがんばれそうです。
ここまで読んでくださったかた、ありがとうございました。